証明写真
たかが証明写真、されど証明写真
証明写真を自分の自宅アパート目の前の写真スタジオで撮ってもらった。
10年前ほどから、今のアパートに住んでいるが、その当時から、アパート側面の向かいに写真スタジオがあった。
スタジオの佇まい的には、看板らしいものはない。窓に今まで撮った写真であろう、人物の写真が窓に貼られている。ドアをよく見ると、
「OPEN 10:00~18:00」
とある。
一階はスタジオ、二階は賃貸で若者に貸してるみたいだった。
そこの主は当時は50代位の方だった。
今はきっと60代だろう。
自分が 入居した当時から、目が合えば、
「おはようございます」「こんにちは」
と挨拶を交わす程度の関係だった。
今回、折角ご近所さんだし、恐らく東京に住むことは最後になる(遊びに行く、出張とかで今後あるかもだけど)。証明写真が必要だったので、お願いすることにした。
お昼過ぎくらいの時間帯のことだ。 証明写真なのでスーツを着て行った。すぐそこの近所とは言え、ネクタイを締めてジャケットまで着込んだら、やはり暑い。
スタジオのドアの前に立つ。
右側にドアホンがあったのだけれど、自分はそのときは気づかず、無意識にそのままドアノブに手をかけてしまった。
ガチャガチャ、、
「はーい」
「あっ」
「いつも、顔は知ってたけど、名前は知らないよね」
「そうですね(笑)」
お互い初対面では無いため、何だか不思議な会話で始まった。
ドアから床に段差があったので、気がつかずそこで躓く自分。ちょっと恥ずかしい。
「証明写真、お願いできますか?」
「ああ、できますよ。」
「デジタルデータにできます?」
「ああ、今はデータをエントリに使うからね。CDRに焼いて渡しますよ」
・・・
このあと、注文の事務的なやりとりが続いた。
正直なところ、お値段は結構高め。
スタジオを構えてるから、まぁ仕方ないか、と納得した。
あと、色々と丁寧に説明してくれたので、そういう部分の手間賃なのであろう。
写真の枚数、データの料金などなどの話が終わったら、
「じゃ、こちらへ」
と、奥のドアの部屋へ案内された。
ドアを開けると、二階へ吹き抜けのとても広い部屋に出た。
白い布の壁に、光が入るようになのであろう、とても窓が多く、広い部屋に通された。
「はい、じゃぁ、そこに立って。あ、もう少し前…」
証明写真とは思えないくらい丁寧に指示が飛ぶ。
「あごはもうちょっと引いて、、、あ、引きすぎ、あ、そうそう」
「じゃ、次は座って撮りましょうか」
立ちと、座りで写りが違うんだそうな。
「口元が固いね。ちょっとすぼめて緩めてみようか」
「リラックスして笑ってもらっていいよ。何枚も撮って、そのあと選ぶので。」
こんな感じで写真を撮ることに時間をかけたのは初めてかもしれない。
そして、自分は構えるとどうもあごが上がり気味になってしまうらしい。
「あごもうちょっと引こうか」
が一番言われた気がする。
つまり自然にしてるとあごが上がってるのか、、、自分は。
偉そうになっちゃってるのかな?気を付けよう、という新しい発見も。
「 次に背景青色にして撮ります」
背景青色バージョンになってまた撮影が始まる。
なんだかくすぐったい気分になった。
程なくして、撮影が終わり、撮った写真の選定をすることに。
主のMacの画面で、数十枚余りの写真を見て、自分でこれいいな、っていうのを選ばせてくれた。
写真家としてのできの良し悪しのアドバイスはくれたけれども。
10年ご近所に居た写真家の語り
この主、若かりしころは、写真家として世界を飛び回っていたらしい。写真選びや作業待ちの間にいろいろと自分語りをしてくれた。
5人の弟子がいること、そのうちの一人がどうやら自分の実家と同じところにいるらしいこと、そのお弟子さんが有名企業の専属になったサクセスストーリーも語ってくれた。
ご本人もどうやら写真家としてがむしゃらに奮起していたようだ。バブル期の話、バブル崩壊後の話。バブル期は何をやってもやったもん勝ちだったこと。2000年を過ぎたあたりから、世間の評価や批評にさらされて身動きが取りづらく感じてきたこと。
それに返礼するように、自分が転職すること、家族の事情で実家に戻ってしまうこと、地元周辺で職を探してること、今の自分の状況のあらましを、全部話した。
そしたら、ぽつりと、
「今の会社でそのまま新規事業続ければ、良かったんじゃない?」
「まー、自分なんか事情を知らなくて思い付きで言ってるんだけれども」
「結構思い付きでね、そのまま行動してみると、案外と自分の思う通りにできるもんだよ」
頭の中のこと
そう。
自分から彼には、今の会社への不満や逃げることの決心については語ってはいない。
思い付きで、”本気”で行動することは、大変なことだけれども、”自分の想い通りになる”はある意味真実を語っていると思う。
”思い付き”という言葉が、なんだか軽い印象を受けるけれども、”思いついた”、そして、それを実行する行動が伴うのであれば、それは立派に自分の責任を果たしているのであろう。
その行動が、正しい、間違っている、は本来誰にもわからないことなんだろうと思う。
なぜならば、正しいか間違っているかはその結果からしか評価できないから、盛大な後付けとなる。
だから、誰かが行動を選択して、結果が出る前に、その行動について正しいのか間違っているのかを、先に評価してしまうのは、可能性を潰してしまっているのかもしれない。そもそも、潰してしまったことに対して、他者はその本人に対して、責任は取れないだろう。
なぜならば、その行動をするかどうかはその本人が決心するかどうか次第だから。
写真が出来上がってから
夕方に仕上がるということだったので、それまでの間、転職に向けた作業や食料の買い物をしていた。程なくして、18:00頃にTELが入った。
「写真が出来上がりましたので取りに来てください」
「はーい、向かいます」
身支度をして、すぐご近所に出向いた。
部屋に明かりがついている。躊躇なくドアノブを下げて、入る。
またもや段差に躓いた。
「段差に躓いちゃいました」
「古い建物だからね。申し訳ないね」
「いやいや、そんなこと…」
「写真とデータ出来上がりましたよ」
そのあと、なんだか惜しむように、主は雑談を始めた。
9月一杯で自分が退職すること、10月の初旬まではこっちにいるけど地元に戻ってしまうことを繰り返し語ることにはなったけれども。
今まで隣人で挨拶を交わす程度の関係性だったのが、証明写真を撮ることをきっかけに、一気になんだか10年来の知り合いが別れを惜しむかのような雰囲気に包まれた。
こういう風に生きてきた人もいるんだな…
今まで自分が他者にどんだけ無関心だったかを痛烈に感じた。
無関心であることで、人との接触回数を減らして煩わしさから逃げていたのであろう。そういう意味では、今回の写真スタジオの主とのやり取りは非常に貴重だったと思う。あえて言うなら、もっと前からこんな風に気さくにやり取りできる関係性になれていたらな、、、とちょっと後悔した。しかし、自分の今までのコミュニケーションスキルと考え方からすると、どうやったって難しかっただろうし、過去は取り戻せない。
今、この時どうするか、これからどうするかを考えることにしよう。過去に着目するときは、”これからどうするか”の反省に生かす時だけにしよう。
地元に戻っても、東京に行く機会を作って、この写真家の主のもとに訪れる機会は作ろうと決意した。