いざ、一社目の面接へ その1
ミサイルと、台風接近と
よりによって、ミサイルが日本を横断した翌日、台風接近の当日、飛行機に乗ることになるとは…
結果的に、思ったほど飛行機自体は揺れなかったし、ミサイルが連日で発射されることはなく、杞憂だった。
特に何事もなく実家へたどり着いた。
台風接近、そして、避難所へ
翌朝、台風は刻々と近づいているようだ。
実家は、農業水路と川に挟まれた、小さな三角州のようなところに家が建っている。
川の方が増水してしまう恐れがあるためか、避難準備指示が出てしまった。
母はその昔、増水でとても恐怖だったのか、避難しようと言う。
「(準備だからそんな焦んなくても、、、)」
と、本心では思ったが、そわそわしてる母をそのまま見ているのも見てられなかったので、避難することにした。
車で5分かからないくらいのところが避難場所だ。
何事かあまりよくわかっていない実家の飼い猫と最低限の荷物を車にのせて、いざ避難所へ。
避難所には、数人の方がいらっしゃるようだ。名簿に既に記帳してる人の人数は、10人越えてるくらいだったかな。
猫がいるということで、多くの人がいる畳の広場ではなく、カーペットの会議室に通された。
会議用の長机があったので、それを使わせて貰うことにした。途中コンビニで買ってきたおにぎりとお茶を母と食べた。
今後のこと、昔のこと、いろいろ話した。
そのうち話す話題がなくなって、風雨の音が非常に大きくなってるのに気付く。
「ここ、天窓があるんやね」
ふと、上を見上げると、うっすら外の光が漏れてる。
「窓に直接あたるもんやから、音もでかいんやね、、、」
強風と連動して、とても雨が窓を打ち付ける。
数時間経過。
「まだ、通りすぎんのかのぉ」
台風情報を見る限り、まだまだ、暴風域から抜けていない。
「まだ、ぬけちょらんねー」
母は恨めしそうに天窓を見て押し黙った。
さらに数時間経過。
「まだ、弱くならんのぉ」
「台風情報的にはもう抜けてもいいころなんやけどなぁ…」
天窓だけだと状況がよくわからないので、避難所の玄関に行って状況を確認してくる。
「うーん、まだ雨は強いなぁー」
と、戻って言っていたら、急に打ち付ける音が止んだ。
「あら。もう止んだんやろか。」
再び玄関に出て確認する。
嘘のように、雨は小降りになって、風は無くなっていた。
「もう、止んだみたいだから、帰れるで」
係の人に帰る旨を伝えて、名簿に退出時間を書いてもらった。
車で我が実家へ帰宅する。
帰宅すると、近くの川がすごい勢いで流れている。水位も結構上まで来てたけれども、幸いぎりぎり氾濫はしていない。
「川、すごいことになっとるね」
「前もこのくらいだったんよ。こわいこわい。」
猫と一緒に帰宅して、実家でのいつもの夕食にありつく。明日は面接で、早起きしなきゃだから、お酒は抑え目にするよ、と母に告げる。
黙ってると、食べ物、お酒をほいほい出してくるから、わざわざ少な目でお願い、と事前に言っておかないと、食べ物やお酒はどんどん出てきてしまう。うちの昔からの流儀。亡くなった祖母も食べよ食べよといくらでも食べ物を出してくれてたもんだから、その娘の母もその血を受け継いでいるらしい。子供のころ食べ物に困った経験がそうさせているらしいことは、なんとなく聞いたことがあるから、そのことで彼女を咎めることはしない。
「食べ物を粗末にしたら目がつぶれるで」
子供のころに母だけじゃなく両家の祖母、近所の人、親戚の人にも口酸っぱく言われた記憶がある。その甲斐あってか、今でもみんなで呑みに行って残り物があると、残り物を食べてしまう習慣があるのは、きっとこの言葉が身に染みているからだろう。
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明日の6:30起きを考慮して、その日は22:30にはもう就寝することにした。
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翌朝。
母から6:00に起こされた。
実は4:00くらいにちょっと目が覚めてて、寝て、を繰り返してて、微睡んでたのと早く寝たのもあって、そんなに辛くなかった。
「朝ごはん食べよ」(朝ごはん食べなさい、の意)
母の朝ごはんはいつも結構しっかりしてる。
納豆、卵焼き、焼き魚、味噌汁、、、
そうこうしているうちに、身支度をしないといけない時間に。
慌てて、身支度を整える。面接のためにスーツに身を包み、広げてたノートPCやモバイル機器をスーツケースに収めて、いざ面接に向かうために、母の運転する車に乗り込む。最寄り駅まで送ってくれるのだ。最寄りと言っても、車で40分以上かかる駅なのだが。
母が運転しながら、ぽつりぽつりと、今後の事をいろいろと話した。
自分の決意としては、
「生まれ育った地で何か今まで身に付けたことを役に立てたい」
だった。
「今の時代なら、夢物語じゃなくて、きっと実現できる」
そう確信できる気持ちがあった。
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そうこうしているうちに、最寄り駅にたどり着く。
「今度会うときは、東京から引き揚げて引っ越しする時やけん」
「これからは、もっと頻繁に実家に帰れることになると思うよ」
自分としてはこれ以上ない親孝行のつもりでこれらの言葉を発したけれども、彼女にしてみれば、いつもの実家から送り出す息子の気持ちだったらしい。なんとなく、うつむき加減だし、口数も少ない。
病気の症状もあるのかもだけれども、なんだか自分も気持ちもわからなくもない。自分も10月にはすぐもどるのだから、と事実はわかってても、なんだか寂しい気持ちにはなった。
「ああ、自分の判断は間違ってなかった。これ以上家族を悲しませる選択をしてはいけない。」と、ますます自分が決断したことは間違っていなかったと、再認識した。実際のところはそれを正当化するために、そのように思い込みたいだけなのかもしれない。
しかし、いままでそういう気持ちに蓋をして、東京でITを生業としていることの優位性を正当化していただけなのかもしれない。今まで、地方で生きることに目を背けていただけなのかもしれない。
こんなことを考え始めることになったのは、2年前の親父の死だ。それまでは、「お前の好きに生きろ」という親父の言葉を真に受けていた。いや、実際には真に受けていなかった。中途半端だったように思う。なぜなら、本当に好きな道にはなんだかんだ理由を付けて初めから諦めていて、素直に進むことができていなかったように思う。
人間関係が辛いから、今の人間関係を壊したくないから、スキルを習得する時間が足りないから、資金が足りないから、、、現状維持のため、できない理由はいくらでも積み上げることができた。それを盾に、行動を起こさなかった。結果、自ら身動きが取れないようにして、行動を起こさなかったわけである。
(もう、現状維持のための言い訳は辞めよう)
自分なりにいろいろな書籍や情報を吸収した結果、今までいかに自分が現状維持主義的だったか、非常に思い知らされた。戦いもしないし逃げもしない- フリーズして身動きせずにやり過ごしてきた- fight , flight or freeze のフリーズが実は多かったのかもしれない。振り返ってみると。
そう、フリーズしてやり過ごすには自分に残された人生の時間は少なくなっている。そう感じてきている。親父が突然死んでしまった、母が50代半ばで統失になってしまった、妹がうつ病になってしまった…
「お前は好きに生きろ」
これは、自由好き勝手に生きろ、と言う意味ではなかったことに、今になってしみじみ分かった。
「お前は、(自分で決断して)好きに生きろ」
そういう意味だとようやく分かった。
つまりこういうことだ。
- 家族を全く切り捨てて生きる決断をする。
- 家族を最後まで面倒を見るような環境に作り上げて生きる決断をする。
きっとどちらも「好きに生きろ」ということだったのだろうと思う。
親父の考え方からすると、どちらも是とする考え方だったように思う。
ただ、どちらが幸せな道なのだろうか?
幸せになる勇気を読了した自分には、もう、後者しか選択肢になかった。
いや、俯瞰視点で見れば、家族に固執する必要性は、共同体感覚の概念からすると必須と言うわけではない。ただ、今現在置かれている状況の自分が感じたこととして、母には貢献したい、という欲求があることに気づき、今回はその気持ちに従って素直に動いたつもりだ。この場合の貢献の気持ちと言うのは、信用ではなく信頼だ。
何か担保を必要とする「信用」ではなく、何も見返りを欲しない「信頼」。ただそこに存在していること自体が貢献につながる-つまり幸福に感じる。
母親と言うのは子供に無条件の愛情を注ぐ、つまり生まれた瞬間から子である自分は「信頼」もらっていたはずだ。その当時の「信頼」に応えようというのであれば、ある意味、「信用」としての恩返しと捉えることもできる。しかし、始まりが「信頼」なのであれば、そもそも見返りや担保のようなものはなかったわけだから、そうしたいと思ったことが自分自身での主体的な考えなのであれば、「信頼」として貢献しようとしている、と自分は解釈した。
「仕事」という「信用」で構築された共同体よりも「家族」という「信頼」で構築された共同体を優先させたという結果だ。
結果として「仕事」という共同体に迷惑をかける選択を自分で決断した。その責任を負う覚悟をしたわけだ。
覚悟を決めると、以前までの鬱々とした気持ちは嘘のように吹き飛んだ。
どんなに罵声を浴びせられても非難をされても、立ち上がれる、そんな気がした。これが「信頼」の力なのかもしれない。
だから、表向きには「信用」と言う誠意が必要だとしても、人間関係相互には、まず、「信頼」関係が必要なのかもしれない。多少騙されてしまう、裏切られてしまうことがあっても、そういう人もいるよね、と割り切って、人を「信頼」する力というのは、人が健全に生きるためにとても必要なことなのかもしれないと、つくづく思った。
面接に挑む
いざ、特急に乗り込み、目的地は終点なわけなのだけれども、到着までの間面接先の会社HPを必死に隅から隅まで見渡して、必死で情報を取り込んだ。3連休の最終日だったからか、自由席の席は空いておらず、出入り口デッキのスペースで立ちんぼ状態になってしまった。それでも、必死で先方のホームページを隅々まで見ることに徹した。必死で自分が今まで経験してきたことと、自分の信念と、何か共通点や共感できることがないかと探し、それを頭にしみこませる作業をひたすらした。だからか、立っていること自体は全く苦痛ではなかった。あれよあれよと目的に着き、スーツを着込んでいることと台風一過でちょっと蒸し暑い事、駅を出てからの行楽客の多さとも相まって、正直うんざりしてしまった。
比較的余裕をもって、出てきたので予定の時間より20分程早めに目的地の建物にはついてしまった。お茶する時間には少し短かったので、とりあえず、母に駅に着いたこと、これから面接であることを電話する。
・・・長くなったので、面接以降のことは次の記事で語ることにします。